「死にたい」と言う人について⑶
前回の終わりに僕は「死にたい」に対して「生きろ」と言えばいいものなのかと書きました。
というかなぜこのブログはこんな話題から始まっているのかについてなんにも説明していませんでした。
「死にたい」と言う人に対しての声に関しての鶴見済氏(主著『完全自殺マニュアル』等)のブログ記事をざっと読んで思うところがあったからです。もっと詳しい説明はやはりこのシリーズの終わりにするとスッキリする気がするのでそうします。もうしばらくご辛抱ください。
とにかく、今回は「死にたい」への「生きろ」に代わるものが何かないかを手探りで探してみる回です。
まずなぜ「生きろ」と言うような声をかけてしまいがちかというと、それはもう反射神経でしょうね。だって、僕たちは生きていますから。生きている自分を正しいと信じて疑わない類の人間が「生きろ」というのです。自分が生きていることを正当化するために「死にたい」発言をあっさりと利用するのです。
…雲行きが怪しくなってきたと感じられる方がもしかするといるかもしれません。
その直感は当たっているかもしれません。僕はひどく考えが歪んでしまっているのだと思います。ひねくれた考えをする脳なのです…
なぜ僕たちは生きていますか。
生まれたからしかたなく、ですか?
もしこの「死にたい」に「もういいよ」と言うことがゆるされるようになったとしたら、僕たちはまだ生きるのでしょうか。
次回は「もういいよ」がゆるされたらどうなるか考えてみます。
(つづく)