あああcg.bhfxdrvmbhubfxawiq
憎い憎い憎い憎い憎い憎い
「死にたい」と言う人について⑷
「死にたい」に「もういいよ」が言えたなら?
きっと反対意見が多くあることでしょう…命とは貴重なものとされているので…
しかしなぜ自分の死を自分で決めることがゆるされないのか…
…いえ、「死にたい」に「生きろ」と言う、生きている人間に腹が立つのです、僕は。
「死にたい」に対してなぜそうも上から目線なのですか。
生きている者はそんなにえらいのですか。
ああ。腹が立ちます。
僕をいつだって苦しめるのは生きている人たち、生きている人たちが生みだしたものです。
だから僕は憎くて仕方がありません。
(つづく)
「死にたい」と言う人について⑶
前回の終わりに僕は「死にたい」に対して「生きろ」と言えばいいものなのかと書きました。
というかなぜこのブログはこんな話題から始まっているのかについてなんにも説明していませんでした。
「死にたい」と言う人に対しての声に関しての鶴見済氏(主著『完全自殺マニュアル』等)のブログ記事をざっと読んで思うところがあったからです。もっと詳しい説明はやはりこのシリーズの終わりにするとスッキリする気がするのでそうします。もうしばらくご辛抱ください。
とにかく、今回は「死にたい」への「生きろ」に代わるものが何かないかを手探りで探してみる回です。
まずなぜ「生きろ」と言うような声をかけてしまいがちかというと、それはもう反射神経でしょうね。だって、僕たちは生きていますから。生きている自分を正しいと信じて疑わない類の人間が「生きろ」というのです。自分が生きていることを正当化するために「死にたい」発言をあっさりと利用するのです。
…雲行きが怪しくなってきたと感じられる方がもしかするといるかもしれません。
その直感は当たっているかもしれません。僕はひどく考えが歪んでしまっているのだと思います。ひねくれた考えをする脳なのです…
なぜ僕たちは生きていますか。
生まれたからしかたなく、ですか?
もしこの「死にたい」に「もういいよ」と言うことがゆるされるようになったとしたら、僕たちはまだ生きるのでしょうか。
次回は「もういいよ」がゆるされたらどうなるか考えてみます。
(つづく)
「死にたい」と言う人について⑵
さて。前回は「死にたい」と発言する人を僕なりに3タイプに分けてみました。
なぜわざわざ分類したのか。
それは、「死にたい」という文字は本当に文字でしかないからです。当たり前ですね。
「死ぬ」という動詞に願望を表す助動詞「~たい」をつけたただの言葉に過ぎません。
僕たちは平然と自分の考えを文字として起こすことができるけれど、実際に文字だけ見てすべてを見抜くなんてことは無理です。それも単純な言葉、まして単文ならより難しく思われます。
「死にたい」と発言したとして、そのシンプルな文には似つかわしくない複雑な感情が乗せられていることだって充分ありえるのです。
つまり前回僕は「死にたい」の発言の意図は3つくらいに分かれるんじゃないかということを踏まえたかったわけです。
そしてここで僕はもうひとつはっきりと言っておきたいと思います。
それは、「死にたい」と言う人に相談窓口の存在を教えることも、だったら楽になりなよと言うこともすべては暗に「生きろ」と言っているだけなのだということです。(「わざわざ言うなよ、不快」とか言う方はおそらく別ですけど…そのような反応をする人についてもいつかとりあげてみてもよいかもしれませんね)
しかし前回最後の方に書いた通り、中途半端な慰めは容易にその人を傷つけてしまう凶器になってしまうのです。
「死にたい」に「生きろ」をぶつけたら「死にたい」は無くなるのでしょうか。「死にたい」という発言に対して「生きろ」と言う他ないのでしょうか。それ、テンプレすぎやしませんか。
(つづく)
「死にたい」と言う人について⑴
SNSでよく「死にたい」と発言する人たちがいる。そのような発言をする人って3つくらいに分けられるのじゃないかしらと思ったので僕なりに分けてみました。
※本当の本当に個人的な考えです、不快になられる方もいるかもしれません。ごめんなさい。
①ただ言いたいだけ(口癖化することも)
実際に誰かの反応を得ることを目的としているのではなく、それを発言することに意味を見い出すようなタイプです。ただ言いたくて仕方ない、たとえ誰がどのように思ったとしても。また、言いたいだけなので助けは必要としていません。むしろ手を差し伸べられたら嫌な顔をするでしょう。他者のことは気にしないので。
②発言した時の反応を見たい
注目を集めて目立ちたい、所謂「かまってちゃん」。非難されたとしても、そもそも誰かに自分がそう発言したことを発見してもらえたことに意味を見い出します。他者からの反応によって自分が今ここにいることを意識することに安心します。それがただの快感となるのか、救いになるのかはその人次第です。
③助けてほしい
本当に助けを求めています。心の底から死にたいと叫び、少し背中を押されたらきっとそのまま崩れてしまいます。それくらい儚いのです。ホットラインなどの相談窓口をすすめる声があったとしても、それさえ自分を救うことはできないと悲観する人もきっと多いことでしょう。
救いはないのだと思ってしまった人のケアは本当に難しく、ぐちゃぐちゃになってしまった糸を、慎重に慎重に解いていくような気力・解いていく最中に支えてあげられる包容力がなければなりません。ですから、このタイプの方へは、どうか中途半端な慰めをするのはやめていただきたいと思います。中途半端な慰めがさらにその人を傷つけることはきわめて容易なことなのです。
(つづく)