「死にたい」と言う人について⑵
さて。前回は「死にたい」と発言する人を僕なりに3タイプに分けてみました。
なぜわざわざ分類したのか。
それは、「死にたい」という文字は本当に文字でしかないからです。当たり前ですね。
「死ぬ」という動詞に願望を表す助動詞「~たい」をつけたただの言葉に過ぎません。
僕たちは平然と自分の考えを文字として起こすことができるけれど、実際に文字だけ見てすべてを見抜くなんてことは無理です。それも単純な言葉、まして単文ならより難しく思われます。
「死にたい」と発言したとして、そのシンプルな文には似つかわしくない複雑な感情が乗せられていることだって充分ありえるのです。
つまり前回僕は「死にたい」の発言の意図は3つくらいに分かれるんじゃないかということを踏まえたかったわけです。
そしてここで僕はもうひとつはっきりと言っておきたいと思います。
それは、「死にたい」と言う人に相談窓口の存在を教えることも、だったら楽になりなよと言うこともすべては暗に「生きろ」と言っているだけなのだということです。(「わざわざ言うなよ、不快」とか言う方はおそらく別ですけど…そのような反応をする人についてもいつかとりあげてみてもよいかもしれませんね)
しかし前回最後の方に書いた通り、中途半端な慰めは容易にその人を傷つけてしまう凶器になってしまうのです。
「死にたい」に「生きろ」をぶつけたら「死にたい」は無くなるのでしょうか。「死にたい」という発言に対して「生きろ」と言う他ないのでしょうか。それ、テンプレすぎやしませんか。
(つづく)